バネ足ジャックは、切り裂きジャックに並ぶ都市伝説の怪人である。その最初の目撃例は英国であるとも、米国であるとも言われ、姿かたちと同じでいまいち実用をつかめないでいる。
一説によれば、当時の軍――かの国であれば海軍か――が開発した新兵器を携えた脱走兵だという見解が主流であった。
無論、軍は関与を否定している。
彼の代名詞にもなっているバネ足。その脚力は常軌を逸脱し、数メートルの高さを誇る塀を一足で飛び越えたとされていた。
悪名、というものに関しては彼の正体以上にはっきりとしていない。
ある村では、婦女子がナイフで襲われたという。また別のところでは、火を吹きかけられたという報告もあがっていた。
切り裂きジャックと違い、明確な被害を出していない怪人である。
――『都市伝説』バネ足ジャックの項より。
三人目の死者がでたのは、梅雨があけ、日差しが強くなってきたころだった。
「またか」
手入れをされていない髪を掻き毟り、小野武は今月に入って始めての死体を見ながら息をついた。
頭頂部から、どす黒い血を吐いている死体。
始めのころに比べ、手だれたのか幾分かは綺麗なままの死体だ。一人目は、後頭部から無理やりに切られていたせいで脳髄《のうずい》がはみ出していた。
「で、何時もどおりの目撃証言か?」
「そうですね。身長はおおよそで百九十。異様に足の長い黒尽くめの男で、顔も白い仮面で覆われていたとのことです」
事件は白昼。人通りの多い時間に起こった。
切っ掛けは決闘だ。佩刀令《はいとうれい》が出されて、早百三十年。日常茶判事となったこれを取り成すのも彼らの仕事だ。今回の場合、彼らがたどり着く前に決着はついていたが。
遠巻きに見ていた者たちによれば、殺された男――名は原田圭吾、(門下のチンピラから絡んだらしい。
いわく、肩がぶつかっただなんだ。因縁のつけ方としては安っぽく、その割りに合わぬ代償を払う結果となった。
「やはり、飛んだようです」
「そうか」
今日を含めて三人。黒い男は斬り捨てている。そのいずれもが一貫して、飛翔による中空からの一撃。目測では、一足で三メートルばかりは飛んだとのことだ。
いかに天下の示現流といえど、空を飛ぶ敵に対する備えはない。いや、いかな流派でも対空技は持ち得ない。それは、飛ぶ鳥を落とす猟師の仕手だ。
「あっ、それとですね。別件ですが空を飛ぶ剣士がいるという情報を小耳に挟みました」
「なに?」
部下からの言葉に、小野は眉を吊り上げた。
「なら、そいつが犯人だろ」
「という訳にも行かないと思います。何せ、今月の頭に元服を迎えたばかりだそうですから」
元服は、明治以降は男女問わずに数えで十五という決まりが出来た。法を犯していない限り、その流派の少年は月初めに初めて佩刀を許されたことになる。
「さしあたり、同門の犯行を疑ったほうが言いかと。話を聞いてみないと、わかりませんけどね」
「だな。とりあえず、合ってみよう。道場は近いのか?」
「わりと。荒川を越えてすぐです」
「よし、すぐに行こう」
行動は早く。これが小野の信条だ。
あぜんとする思いを、小野は抱いた。
佩刀令がなされてより、古今東西には様々な剣術道場が乱立した。有名どころをあげれば、示現流、北辰一刀流、神道無念流、天然理心流といったところか。これらから派生したものや、全くの我流から磨き上げたものなど、大小をあわせておおよそで五百の剣術道場がある。
その中には勿論、門下生がつかずに消えていくものもある。今、小野の目の前にある道場もその一つだ。
『踏越流道場武技館』と掲げられた看板は、キチンとした手入れをなされているのか綺麗ではある。問題はそれ以外の、武技館と呼ばれる建物自体だ。
廃屋。
その一言が、よく似合う。誰でもが、同じ感想を抱く。
ひび割れた窓ガラス。カビを浮くままにしている木造りの壁。何かの植物の蔓は屋根まで伸び、わずかに見える屋根の瓦はいくつかがない。
「これじゃあ、門下生なんか長い間いないだろうよ」
「ですね」
外れか、小野は胸中で断じた。
とはいえ、ここまで着て手ぶらで帰るのもあれかと思い門、とは呼べぬ板を叩く。乾いた、今にも壊れそうな不協和音がした。
「はいは〜い」
のんきな声がする。ややあって姿を現したのは、小野の胸くらいまでしか背丈のない少年だ。腰に佩刀しているが、童顔ゆえに些か不釣合いに見える。駐在所の者であれば、捕まえて年齢確認はするだろう。
「えっと、入門希望の方では…」
「いや。警察のものだ。いくつか聞きたいことがあるのだけど、道場主の方は?」
「はぁ、おれですけど」
気のない返事だが、小野は少しだけ眼を丸くした。どう見ても少年にしか見えない彼が、と疑問を投げかけようとしたところで答えは先んじて発せられた。
「おれ以外、門下生もいませんし師範は昨年に事故でなくなったものですから」
それで、得心がいった。彼以外に人がいなければ、彼が道場主だろう。
「じゃあ、君に聞きたいんだが中に入っても?」
「構いません。出涸らしの茶くらいしか出せませんが」
先導するように歩きながら、少年は自嘲した。小野は、苦笑する以外に返せる言葉はなかった。
少年の名を、三成伊織といった。姓と名を入れ替えても違和感はないな、と言うのが小野の感想だ。
今、三人は道場の真ん中に正座して座っている。伊織の言っていた出涸らしのお茶は、言うよりは味が出ていた。薄いのはたしかだが。
「バネ足ジャック、と言うのは知っているかな」
「えっと、はい。この辺りに出没するって言う辻斬りの名称ですよね」
そうだと、小野は肯首する。質疑応答は彼が担当し、一緒に来た若いのは会話の内容を書き留めている。
「その容貌はともかく、空を飛ぶという技がここの流派にある時いてね。ここの門下生が下手人じゃないかと思ったしだいなんだが……」
「残念ですが、ここ数年はおれだけしかいません」
「とすると、お前さんが犯人かな?」
「違いますよ」
だとは、小野も思っている。そもそも、犯人の背丈にこの少年は三十センチばかり足りない。その差を埋めるのは、たやすい事ではない。
「なら、門下生の目録はあるかな」
「ありますけど、おれ以外は数年前にいた人達ですよ」
「構わないさ」
ちょっと待っててください。そう言い残し、伊織は道場の隅へと移動する。そこに、備え付けの茶箪笥がある。中から取り出したのは、いくつかの古びた紙の束だ。
「これです。初代から数えて、三十年分」
「ありがとう」
小野は、その場でザッと目録を流し読む。三十年分といっているが、門下生自体は少ないのか五十にも満たない数しか載っていない。所在地や連絡先が記載されているから、数十枚の束になっている。
その中に一人。今からちょうど、十年前に止めたと記されている名前に小野は注目した。正確に言えば、その姓に。
藤原信之助《ふじわらしんのすけ》。
偶然かどうか、最初の容疑者と同姓同名だ。
「良かったら、これを借りていっても?」
「まぁ、返してくれるならいいですよ」
少しだけ考えるそぶりを見せて、伊織はうなずいた。協力的だな、そう判断した小野はもう一つの願いをしてみることにする。
「それと、良ければ空を飛ぶという技を見せてもらいたいんだが」
「一応、門外不出なんですけどね」
「そこを何とか、お願いするよ」
う〜ん。と、声を出しながら伊織は首を捻る。流石に、剣術の一端を見せることには抵抗があるようだ。小野にしても、駄目で元々という意識が強い。
剣術を習う者たちは、自身が獲得した技を誇ることはあっても、話すようなことはしない。対処法を編み出されるのを警戒して、と言うのが理由だ。単純なようで当然ともいえる。手の内が明かされているというのは、決闘においては命取りになるからだ。
「まぁ、良いか。どうせ、真似も対処も出来ないだろうし」
「助かるよ」
物言いに引っかかることもあったが、協力してくれる以上は何も言うまいと小野は自分を律することに神経を費やした。
「あっ、そうそう」
立ち上がり、壁の側まで移動した伊織は唐突に口を開く。
「さっき空を飛ぶ技って言ってましたけど――」
「ああ。目撃情報で、そういうのが多いんだ」
小野の返事を聞いて、伊織はフッと馬鹿にするかのように鼻で笑う。そして、言った。
「人は、空を飛べませんよ」
翌朝。上司に報告をするべく書類をまとめているときにその報告は来た。
「はっ? バネ足の死体がでただと」
あり得ない。その言葉を辛うじて飲み込み、小野は詳しい話を聞くために書類を書く手を止めた。
「死体は今、安置所に置かれてます。姿かたちは目撃情報と一致してますね。凶器が一致すれば、確定するでしょう」
「そうか…見ることは出来るか?」
「今すぐには、ちょっと無理かと。ただ、死因は頭頂部から首筋にかけての一撃だと思われます。目立った外傷は、そこにしかないので」
皮肉か、それは。と小野は思う。殺され方は、バネ足が最初に殺した男にしたものをなぞる様に酷似しているからだ。
「で、身元は?」
「一応、小野さんの予測でビンゴです。藤原信之助、三十八歳。詳しいことは当たってみないことにはなんとも。大方、返り討ちにあったって所だと思います」
「そうか……」
すっきりしない。小野の胸中は、その一言に尽きた。
本当に藤原信之助がバネ足ジャックだったのか。それは、これから調べていけばわかることだが、彼がそうであった場合は被疑者死亡で事件は幕を閉じることとなる。
「一応、第一発見者を呼んでありますけどどうします?」
「そうだな、話は聞いておこう」
腰を上げて、小野はデスクを後にする。
事件は終わりだな。そう、思いながら。
少しだけ、時間は遡る。
夕暮れ時。逢魔が時とも称されるこの時間帯は、人と魔との区別がもっともつきにくい。
昼は人の時。夜は魔の時。
境目たるは、逢魔が時。
人は魔と出会い。魔は人と出会う。
行き交う人々。日常を過ごす者たちは、早々と帰路へとついていく。最近の辻斬り――通称、バネ足ジャックを恐れてか。あるいは単純に、食事の準備のためかもしれない。
その中でも、ゆっくりと歩を進める者はいる。
三成伊織。
左腰に刀を佩いて。首筋の辺りで縛られた髪の毛を揺らしながら、フラフラと目的もなさそうに道を歩く。
事実、目的地はない。だが、目的はある。
バネ足ジャック。そう呼ばれる辻斬り。
もしや、という程度だが伊織には予感があった。バネ足ジャックは、踏越流《とうえつりゅう》の門下ではないか、という予感が。
勘、に等しいそれだった。都合よく出会えるとも思っていなかった。
「おや?」
何時の間にやら、長身の男が立っていた。
気温は平年よりもやや低いとはいえ、暑さはあるというのに真っ黒なコートを全身に着込んでいる。異様なのはその足。身長からしてみても、長すぎると言えた。
「連中に、何を喋った」
小さい声。遠くから聞こえる車やセミの声に紛れ、ふとすれば聞き逃してしまいそうなほどの声量。でも、今回に限れば伊織は聞き逃さなかった。
「さてなぁ。当たり障りのないもんだったと、思うがね」
「俺のことを、喋ったのか?」
「いいや。言ってないね」
確かに、口にはしていない。
「……そうか。なら、いい」
踵を返し、立ち去ろうとする藤原に対し、伊織は投げかける。
「目録を、見せはしたけどね」
ザッと足が止まった。ややあって、ゆっくりと振り返る。
左手は、鯉口の辺りを握っていた。
「貴様ッ!」
鯉口が切られる。抜くには至らない。ただ、時間の問題だ。
「そんなんじゃ、自分が犯人ですって明言してるようなもんだぜ」
伊織の手も、刀に添えられる。
右手は柄に、左手は鞘に。
「あんたがバネ足ジャックだろ。最初の犠牲者、あんたの奥さんの若いツバメだもんな。二人目は、会社の上司か」
ネットで見たよと、嗤って言う。
「黙れ、貴様のような餓鬼に何がわかる!」
「わからねぇなぁ――負け犬の気持ちなんざ、何にもわからねぇ」
「キサマァ!」
言い切ると同時に、刀が抜かれた。
音は一つ。抜かれた刀は、二本。
どちらも名刀とはいえない。佩刀令以降に打たれた、現代刀のうち一振り。
確かに名刀ではない。だが、一人を斬るには十分すぎる凶器だ。
互いに構えは同じ。
踏越流、参の構え。
刃を寝かせ、地面へ刃先を向ける。正面から見れば左斜め下に刀が来る。持ち手からすれば、右手側。踏越流で基本となる三つの構えのうち一つだ。
怒り心頭でありながらも、藤原は心のうちでは冷静だった。負けるはずがない、その思いがあったのも事実だ。
こんな若造に、負ける理由はない、と。そして何より、彼には鬼札がある。
必殺の奇剣がある。だから、けして負けはしない。
伊織は、先日に元服を迎えたばかりだ。ゆえに、真剣を使っての実戦はこれが初めてとなる。
気分は落ち着いていた。
相手の姿が、挙動が、呼吸が良く見える。不可思議な気分だと、伊織は内心で思う。
初めて刀を手にしたとき、その軽さに伊織は驚いた。鉄のそれなのに、驚くほどに軽い。そして今、その刀はさらに軽さを増して体の一部のようになっていた。錯覚ではあるだろうが、それほどに伊織は集中していた。
呼気を一つ、二つと続ける。膠着状態はたやすく崩れそうにない。今のままであれば、藤原が有利だということは伊織もある程度は察知していた。
同門同士の戦いであるが、互いに互いの実力を知らない。だが、経験というものでは藤原に一日の長がある。もしかすれば、その差はたやすく埋められないほどの開いているかもしれない。
でも、伊織は動いた。先んじて、攻めに回る。
踏越流で、勝機を得るタイミングは三つ。先、先の中なか、後の先。それぞれを、相手の攻撃前、攻撃中、攻撃後と分けて考える。
今回、先んじて動いた伊織の選択は先。文字通りの先手必勝。攻められる前に、攻め倒す。
コンクリートの地面は硬く、道場の畳とは違った感触がある。道場のそれは、たやすく跳ね返ってくるがこれは違う。なにせ人が走ることを想定していない。
しかし、踏越流の歩法は物ともしない。
もとより、ありとあらゆる道を、間合いを踏み越えるのが踏越流。
初速から間合いをつめるまでの速度に、伊織は満足がいっていた。今までで最高の速さだと、間違いなく断じられた。
しかし、空へと向いた刀に手ごたえはない。
「――――ッ」
気がつく。自分が馬鹿だと、叱咤する前に身体を前へと倒す。そのすぐ後に、風が来た。
転がり、両手を突いて跳ね起きる。そして、見た。
翻る黒い服は、夕日を遮り一瞬だけの夜を作る。上下は逆さま。頭が下で、足は上に。その足にあるのは銀色のバネ。
――バネ足ジャック。
軽やかに宙返り、藤原は伊織が立っていた位置に着地する。
立ち位置は入れ替わる。状況は変わらない。
「驚いた。あれを、かわすか」
「何度も報道されてるしな」
立ち上がり、互いに構えを戻す。参の構え。
さぁ、どうしよう。と、伊織は考え。
さぁ、どうする? と、藤原は言う。
空を行く鳥を落とすには、刀では届かない。それは猟師の仕手だ。歯噛みして、けれども伊織は思考を廻らせる。
踏越流歩法の参 唐竹。
垂直にとび、上から斬りかかるこの技はその実、実用性にはかける。もっとも重大な欠点として、跳び上がれる高さにある。
精々が、二メートルと半分。それも、斬るためでなくただ跳ぶことに集中した場合のみに発揮される。
藤原は、バネ足ジャックは足に仕込んだ仕掛けによってそれを解決した。
解決の大本は、米国の玩具会社の開発した子供向けのホッピングという玩具だ。
これは、先端にバネをつけた棒に乗って飛び跳ねるという玩具。それを両足につけ、踏み込むことで跳躍する。
それだけで足りない。三メートルの距離を得るには、まだ足りない。
だから、藤原は改造した。
自分の足を、身体を、バネを、改造した。
背負うようにしているのは、電気仕掛けのバネ巻き。これでバネを巻き取って、弾かせることで強く地面を打つ。巻き取りは一瞬で終わる。だが、巻いたままに出来ないという欠点を併せ持つ。
そのために、まずバネを隠すために裾の長いズボンを用意した。
次にやったのは、足腰の強化。バネの反動、電気仕掛けのバネ巻きを背負えるほどの強固な足腰。これはたやすかった。踏越流にいたころの杵柄か、基礎は出来ていた。
この二つを併せ持ち、バネ足ジャックの姿は完成する。切っ掛けは一つ。自身の妻に寄り付いた、下種を斬るために。
たやすかった。最初の男がどれほどの技量があったのか、それはハッキリとして知れない。ただ、自分の姿を見失い、周囲を探す様を上から見たときは心のそこから愉快だった。
上空は、剣士にとって絶対の死角。そこを突く、ただそれだけで誰もがたやすく命を落とす。
今度も、同じだと藤原は笑う。
「………ふぅ」
呼気を払うように、伊織は大きく息をつく。
「なんだ、諦めたか」
「いいや、違うね」
あざ嗤った。凄惨な笑みだ。強者の笑みだ。
「思ってた以上に、すごくはないなって」
言い切ると同時に、駆けた。
はっきり、目的地がわかるように。
誘い込みだ。
「逃さぬ」
短く言って、走る。疾駆と呼ぶには遅いが、十分に追いつく心持だ。
移動しながら周囲を見る。人はいない。伊織がそういう道を選んで歩き、藤原が誰もいないときを見計らって声をかけたのだから当たり前かもしれない。が、一応の用心をと思い藤原は仮面をつけた。
警戒しながら、伊織の入り込んだ路地を覗く。
路地の幅は、二メートルちょっと。高さが制限される場所かとも思ったが、見上げた上には狭いながらも夕空が見える。
「当てが外れたようだな」
「いいや、これでいいんだよ」
六、七メートルの距離を置いて、二人は向き合う。伊織は路地の中ほどに、藤原は路地の入り口に。
「――――――ッ!」
今回先手を取ったのは、藤原だ。
身を屈め、力を溜め込む。
刀は担ぐように構える。踏越流、弐の構えだ。
駆動音。バネを巻き取り、膝から先に力を込める。
「これで終わりだ」
弾ける。
――踏越流歩法の六 津波。
足先で地を蹴り、瞬間的に間合いをつめるこの技は藤原がもっとも得意とした歩法の一つだ。本来の用途である間合い騙しとしてでなく、藤原は跳躍による反動をつけるために用いる。
両脚を曲げ、勢いを殺さずに着地。そこから連続して唐竹。
同時。バネが地を叩く。
自身の脚力と、バネによる跳躍。その二つをあわせ、バネ足ジャックは中空を飛ぶ。
速く、高く。
瞬く間に地上から離れ、藤原は最頂点に達してから重力に引かれて落下する。否、重力を利用して伊織に迫る。
地上で、殺されるのを待つ伊織を――
いない。
仮面越しの視界に、伊織は映らない。見えない。
見下すべく見下ろした目線の先にはうろたえている筈の伊織は、何処にも姿を見せていない。
藤原は探す。彼が斬った三人同様。警戒しながら、目線だけを左右へと動かして。
彼ら同様。いるわけがない。見つかるわけもない。
もとより左右は壁。何より彼は、落下中とはいえ中空。人である以上、飛ぶことは叶わない。
それはバネ足ジャックも、藤原も同じ。
人は飛べない。
羽を持たず、爆発的な推力を生みだす事の出来ない人は空を飛べない。
――けれど。
上には上がいる。これは、いかに優れたモノでもそれを上回るモノは必ずあるという戒めの言葉だ。
此度、この言葉は二重の意味で作用する。
影がさす。
藤原の上。そこに、伊織の姿があった。
構えは弐。右肩に担ぐようにして、藤原の上から自由落下に任せて落ちる。
高さにして三メートル五十。落下を始めているとはいえ、人の身で上るには高すぎる位置。
それを可能としてのは、踏越流歩法の五 気流だ。本来は室内での使用を前提としたこの技は、壁を蹴り跳躍する。簡単な言い方をすれば三角飛びだ。
ただし、これだけでは足りない。通常、気流では二メートル程度の跳躍しか出来ない。それ以上の高さを得る必要性が、本来はないからだ。肉体の限界、というのもある。
伊織がこの問題を解決したのは、実に単純な方法だ。
まず、通常の気流。このまま上や前に飛び、相手に挑むのが通常だが伊織は横に跳ぶ。跳躍距離ギリギリのところで、反対側の壁。そこで再び気流。これを交互に繰り返し、伊織は壁を昇る。
上には上がいる。物理的に、実力的に、伊織は藤原を上回る。
――人は飛べない。
――けれど、跳ぶ事はできる。
藤原は気づかない。気づけない。
もとより上空は、剣士にとっての絶対の死角。標的を見失ったものでも、最初に見るべきは左右であり上ではない。加えて言うならば、彼の前提として上をとられる事はないというのもある。
ゆえに、藤原はそのまま命を絶たれた。
気づくまもなく。彼が始めて殺した男と同じように、頭頂部から真っ直ぐに剣で斬られて。
懐紙で血を拭い、鞘に刀を納めた伊織はそこでようやく緊張を解いた。
「案外、つまらないな」
真剣での戦い。
殺し合い。
斬り合いに武士の本分を見出した者たちが望むこれらを、伊織は一蹴する。
殺したことによる罪悪感も、死ぬかもしれなかったという恐怖も伊織にはない。ただ、こんなものかという諦めにも似た感情が渦巻くだけ。
藤原信之助の剣技、それは確かに奇剣ではあった。前情報があり、彼が侮っていたから一度目は避けることが出来た。
だが、それだけだ。
奇剣ではあるが、仕掛けが理解できれば対処できないものではない。
今回の立会いも、伊織は二通りの対処法を思いついていた。一つは先に実践した方法。もう一つは下がって着地点だけを狙うというもの。
わざわざ手間のかかる方法を選んだのは単に、踏越流の技を使いたかったという子供じみた理由からだ。
けれど、得る物はあまりなかった。あるとすればそれは、自分が使った技。
自身の技を振り返り、伊織は軽く反省点を鑑みる。
すぐに思いついたのは最初の一手。ただの踏み込みで斬りかかったが、あの場は歩法で行くべきだったと判断した。
それだけだ。唯一得た反省点。それを元に、伊織は明日からの鍛錬メニューを組み立てる。それも一瞬。少しだけ気温が下がったことに気づき、伊織は頭を振る。
「帰るか」
背後にある藤原の死体を見向きもせず、呼気を吐いて伊織は真っ直ぐに家路へとつく。
やや上気していた頬は、夕焼けでさらに赤く染まっていた。
――怪刃 バネ足 了